メッセージ
 

ご挨拶

メッセージ

要約筆記とは

聴覚障碍について

アーモンド

お知らせ

御意見・ご質問など

関係の回復=受け容れと赦しの中で

 二人の眼は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
 アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを生み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
              (創世記 3章7〜10節、21節  4章1節) 

 東日本大震災以来、流行語のように「絆」という言葉が使われるようになりましたが、その反面で、このところ急に目立つようになった感じがするのが、“都会の中の孤独死、それも餓死状態での死”とか“乳幼児の虐待死”“無保険死”などです。少なくなってきているとはいえ“自殺”も後を絶ちません。このようなニュースを見聞きするたびに、「この人たちはどのような思いの中で息を引き取って行ったのだろうか?」と思わされて、心の痛みを感じずにはおれません。
 「絆」、辞書(広辞苑)には二つの意味が書かれています。
1、 馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱。
2、 断つに忍びない恩愛。離れがたい情実。係累。繋縛。
 このように「絆」とは極めて強固な結びつきを意味しており、簡単に解けたり離れたりするようなものではないのですが、先日のバレンタインデーには「(バレンタインの)絆チョコレート」という売り出し文句がよく見られましたし、ホワイトデーを間近に控えて今は「絆○○○」という商品が目につくようになりました。私はこのような文言をみると、「絆」という言葉がいかにも軽く取り扱われているような気がしてならないのです。
 大震災で被災した地域へ入るボランティアの人たちの数が、大幅に減って来ているというニュースなども聞きますが、このようなところにも、「絆」と言いながら、それが簡単に失われて行ってしまう実態を見るように思います。

 「人間関係=コミュニケーション」というものをどのように考えていったらよいのでしょうか? 聖書(創世記)から聞いてみたいと思います。

関係の破綻(エデンでの出来事) 
 はじめに神に創造された時の人は、神との完全な関係の中にいました(2:17)が、「神のようになる」(3:4)という蛇の言葉に欺かれたアダムとエバが、“神の言葉に逆らって”「園の中央に生えている、善悪の知識の木の果実」を取って食べた時(2:17、3:3)、人は神を恐れるものとなり、神の前から身を隠しました(3:8、10)。・・・ここで注意しておきたいのは、神が人退けられたのではなく、人が神の前から身を隠した。すなわち、人の側から神との関係を断ったという事です。
 この神との関係の破綻が、人との関係をも壊しましたし(3:7、16)、今日「環境問題とか環境破壊」とか言われている、自然環境とのあるべき関係も壊してしまいました(3:17〜19)。
 このようにして、人が神との正しい関係を壊したことによって、神がおつくりになり、祝福された「極めて良かった」(1:31)ものの全ての良い関係が破壊されてしまったのです。

関係の回復(エデンにおいて)
 人が壊してしまった神との関係の回復は、神からの働き掛けを待たなくてはなりませんでした。 エデンで神の前から身を隠した人に対して、神は「どこにいるのか。」と声を掛けられます(3:9)。
 「どこにいるのか。」この呼びかけは、神が人を探しあぐねて語られた言葉ではないでしょう。むしろアダムとエバに“いま、自分たちがどこに(どんなに危険な場所に)居るのかが判っているのか”という覚醒を求める言葉として私は聞いています。
 神の前から身を隠し通せないことを知って、木の陰からのそのそと出てきた彼らに、神は「皮の衣を作って着せ」てくださいました(3:21)。・・・この皮は羊だったでしょうか、山羊だったでしょうか、それとも牛だったでしょうか、いずれにしても犠牲となった動物の血が流されていたことを忘れてはなりません。
 (ここから創世記は「神による万物創造」から「人間世界」へ記述の重点を移してゆきます。)
 「アダムは妻エバを知」りました(4:1)。始めの時の「二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしな」い関係を取り戻したのです。その結果、身ごもったエバは男子(カイン)を産み」ましたが、このとき彼女は「私は主によって男子を得た」と言っています(4:1)。“子供を産む”という事を通して彼女は“神に赦され、神との関係が回復された”ことを、体験として知ったと言えましょう(テモテ第一 2:15参照)。
            
テキストの人(マルコ 7章32〜35節)の場合
 この人がキリストとの出会いを経験する前に、自分が罪人であることをどれだけ意識していたかは判りませんが、「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ 9〜18)「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めた」(ガラテヤ 3:22)などと言われるように、この人も罪人であることは否定できません。
 そして、この人が住む村を訪れられたキリストに、私たちはエデンでアダムとエバに声を掛けられた神のみ姿を重ねることができます。エデンでの神と同じように、キリストはこの人に声を掛け、癒し(救い)のみ業を現わしてくださいました。
 キリストによって「はっきり話すことができるようになった」この人は、この後、病める人や苦しみ悩む人、貧しい人や見捨てられたような人を思い遣ることのできる人とされ、そのような人々との固い絆を保つ者とされて共に歩んでいったことでしょう。

互いに受け容れ、赦しの中で生きるために
 「愛された経験を持たない人は愛することができない」と言われているように、受け容れられた経験がない人は他者を受け容れることが難かしいでしょうし、赦された経験が他者を赦す人を生みだすのです。
 「愛することの裏には、血の出るような苦しみも存在します。赦すことは時として、血の出るような苦しみを伴います。その血の代償として、ひとは愛を受け、救われるのです」 (日野原 重明)

inserted by FC2 system